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水で動く車、完成!
インフル記事はまだだけど、今日は特報記事で!
水で動く車が遂に完成! いや~っほ~っ!! くほっほほ~っ!!!
お祝いだ~っ!!!!!
http://goldentamatama.blog84.fc2.com/
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ふぐり玉蔵さん
みなさま、あけましておめでとうございます。
「ブログ」なるものを持つことなぞ一生無かろうと思っていた私ですが、はじめまして。
今回、はじめてなので長い文章を書いてみます。普段は、こんなに長くは書けまっしぇん。
2009年、私にとって大きな事件がありました。
それは、ふぐり玉蔵さんのブログ を知り得たこと。
そもそものきっかけは、
1995年3月20日に起きた地下鉄サリン事件からちょうど10年目の2005年(平成17年)3月20日(日)、
「福岡県西方沖地震」での被災。
震度6弱。マグニチュード7.0。直下型地震。 震源の深さ9km
震源地は、福岡の西方沖、玄界島。
本震における玄界島での推定震度が最大で震度7となる可能性があることが、地震から数ヶ月後に発表された。
(玄界島には、本震発生当時震度計が設置されておらず。Wikipediaより)
玄界島に程近い福岡市の沿岸部に住んでいる知人友人は一様に口を揃えてた。
「ドッカーン!って爆音の直後に揺れ出したんよね。」と。
ちょうど、海岸に居た同僚は、瞬時に「飛行機が落ちた!」と思ったそう。
私の被災と言っても、割れたガラスで手足を切って血マミレになったり、
家具は倒れまくり、食器や置物、時計にCDなんかが割れてメチャメチャになったり、
とにかく家中ひどい状態、総額10万円程度で、家ごとやられたわけじゃないからまだ良いけれど。
それでもやっぱり、ひどいショックだった。
あれだけの地震で何より驚いたのが「死者1名」(ご冥福をお祈りします)。
死者が1名のみだったということで、この地震が規模の小さなものだったと誤認されている感もあるけれど、実際、
「こりゃもうダメだ、ここまでだ、今日死ぬのか!」
と、覚悟したほど、その瞬間は凄惨だった。
ガガガガガーッ!バリバリバリリーッ!ゴゴゴゴゴーッ!パリパリパリーン!ガチャガチャーンッ!
あと数秒揺れが続いていたら、街は壊滅状態に陥っていたに違いない。
損害を取り戻せず、小さなバーや商店、個人経営のレストランや喫茶店、ブティックが実はたくさん廃業したのを知っている。
未だに、街の一等地には、地震により崩壊の危険有りとして5年前からそのまま放置され、落書きだらけのアパートも。
地震の翌年、そこから歩いてすぐの土地に、高級志向の大型ファッションビルが建った。
今年の春、そこから遠くない土地に、PARCOがオープンする。
趣の有る小さな店が次々に消え、巨大なビルがそびえ建つ。
大きな物に、のみこまれてゆく!
実は、あっちもこっちも埋め立てまくりの福岡の中心部。
福岡で最も金持ちの住むエリアがその代表。地震による液状化現象は悲惨だった。
それから、博多港の港湾機能強化や宅地開発等のために1994年からせっせと埋め立てられていた人工島、
「アイランドシティ」には、さらに金持ちが集まるはずだった。
地震から9ヶ月後の2005年12月、入居開始。しかし、未だに売れ残っている。
アイランドシティと、半島状の陸繋砂州「海の中道」へと続く「雁ノ巣」を繋ぐ「海ノ中道大橋」は、開通から2年半での被災。
地震の翌々日になっても震度4。更に、1か月ぶりに雨が。玄界島は、さぞ大変だっただろう。
ちょうど1ヶ月後の4月20日、さらに震度4。
玄界島では、半壊状態だった住宅も遂に全壊…
あの地震。
震源の深さ9kmって…
西方沖って…
すぐそばを走る昔から有る断層とは一致しないって
福岡は比較的地盤が固いそうで地震が起きる確率の低いとされるエリアだったのだが…。
あれからもう5年も経つ。あれからなおさら、地震がおそろしい。
2009年、また地震が起きた。震度3だったけれど、あの地震の恐怖が蘇ってきた。
頭から離れない。地震について、よく調べてみたくなり、早速、ネットで。
あれこれ廻って辿り着いたのが、玉蔵さんのブログ。
凍り付いた。食事も抜いて読んだ。過去の文章まで徹夜して読んだ。
玉蔵節も気に入って、らくらく読めてしまった。ただ、何度も何度も「ゾーッ」とした。
「ゾーッ」としながら「拍手する」というのは初めての経験だったが、
ひたすら、読む→ゾーッ→拍手、読む→ゾーッ→拍手、読む→ゾーッ→拍手を繰り返した。
この10年、勉強勉強!仕事仕事!で生きてきた私にとって、初めて知ることばかり。
HAARP、サンジェルマン伯爵、ベクテル、ブッシュ、イルミナティ、フリーメーソン。。。
他に、多数の関連サイトを参考にしつつ、検証しながら、参照しながら。
内なる衝撃ってーのはこーゆーことだ。
仕事ほっぽり出して読んだ。その皺寄せで年末は大変だった。
しかしどうにかなるもんである。
くほほ。
とにかく、それ以来、全くの無知だった私は、玉蔵さんのおかげで、色んなことを知ってしまったのだ。
玉蔵さんへの感謝は深い。ただ「知ってしまった者としての責任」というものも強く感じる。
福岡西方沖地震。平成17年3月20日(日)午前10時53分。
「2005年3月」のHAARPの動きを調べてみて、ゾッとしてカッときた…。
自分の中に火が付いた。
黄金の金玉から派生して、色んなブログを読み漁って、まだまだ、たった数ヶ月だが、心は「やらせはせん」である!
最後に、玉蔵さん!発信源を増やしてのネットワーク作り、最良最高の案と存じ、賛同させてもらいました。
色々と教えてもらったこと、本当に本当に感謝している。
長文になってしまいました。読んでくださってありがとうございます。
次回は、新型インフルエンザの件で、自分の不可解な経験と疑問をサラッと書いてみます。
2005年3月19日。
同年1月に国務長官に就任したライスが来日、米国産牛肉の禁輸措置解除について、こう迫った。
※「この問題を解決するときが来た」
「米国産牛肉は安全だと保証する」
「科学にもとづいたグローバルスタンダードがあり、例外を認めるべきではない」
「(日本と同じ)全頭検査の要求は非科学的」※
※太字部分※:「木霊の宿る町」より引用
翌3月20日、羽田から韓国に向かったライスの乗った飛行機の、その真下で福岡県西方沖地震が起こった。
「ブログ」なるものを持つことなぞ一生無かろうと思っていた私ですが、はじめまして。
今回、はじめてなので長い文章を書いてみます。普段は、こんなに長くは書けまっしぇん。
2009年、私にとって大きな事件がありました。
それは、ふぐり玉蔵さんのブログ を知り得たこと。
そもそものきっかけは、
1995年3月20日に起きた地下鉄サリン事件からちょうど10年目の2005年(平成17年)3月20日(日)、
「福岡県西方沖地震」での被災。
震度6弱。マグニチュード7.0。直下型地震。 震源の深さ9km
震源地は、福岡の西方沖、玄界島。
本震における玄界島での推定震度が最大で震度7となる可能性があることが、地震から数ヶ月後に発表された。
(玄界島には、本震発生当時震度計が設置されておらず。Wikipediaより)
玄界島に程近い福岡市の沿岸部に住んでいる知人友人は一様に口を揃えてた。
「ドッカーン!って爆音の直後に揺れ出したんよね。」と。
ちょうど、海岸に居た同僚は、瞬時に「飛行機が落ちた!」と思ったそう。
私の被災と言っても、割れたガラスで手足を切って血マミレになったり、
家具は倒れまくり、食器や置物、時計にCDなんかが割れてメチャメチャになったり、
とにかく家中ひどい状態、総額10万円程度で、家ごとやられたわけじゃないからまだ良いけれど。
それでもやっぱり、ひどいショックだった。
あれだけの地震で何より驚いたのが「死者1名」(ご冥福をお祈りします)。
死者が1名のみだったということで、この地震が規模の小さなものだったと誤認されている感もあるけれど、実際、
「こりゃもうダメだ、ここまでだ、今日死ぬのか!」
と、覚悟したほど、その瞬間は凄惨だった。
ガガガガガーッ!バリバリバリリーッ!ゴゴゴゴゴーッ!パリパリパリーン!ガチャガチャーンッ!
あと数秒揺れが続いていたら、街は壊滅状態に陥っていたに違いない。
損害を取り戻せず、小さなバーや商店、個人経営のレストランや喫茶店、ブティックが実はたくさん廃業したのを知っている。
未だに、街の一等地には、地震により崩壊の危険有りとして5年前からそのまま放置され、落書きだらけのアパートも。
地震の翌年、そこから歩いてすぐの土地に、高級志向の大型ファッションビルが建った。
今年の春、そこから遠くない土地に、PARCOがオープンする。
趣の有る小さな店が次々に消え、巨大なビルがそびえ建つ。
大きな物に、のみこまれてゆく!
実は、あっちもこっちも埋め立てまくりの福岡の中心部。
福岡で最も金持ちの住むエリアがその代表。地震による液状化現象は悲惨だった。
それから、博多港の港湾機能強化や宅地開発等のために1994年からせっせと埋め立てられていた人工島、
「アイランドシティ」には、さらに金持ちが集まるはずだった。
地震から9ヶ月後の2005年12月、入居開始。しかし、未だに売れ残っている。
アイランドシティと、半島状の陸繋砂州「海の中道」へと続く「雁ノ巣」を繋ぐ「海ノ中道大橋」は、開通から2年半での被災。
地震の翌々日になっても震度4。更に、1か月ぶりに雨が。玄界島は、さぞ大変だっただろう。
ちょうど1ヶ月後の4月20日、さらに震度4。
玄界島では、半壊状態だった住宅も遂に全壊…
あの地震。
震源の深さ9kmって…
西方沖って…
すぐそばを走る昔から有る断層とは一致しないって
福岡は比較的地盤が固いそうで地震が起きる確率の低いとされるエリアだったのだが…。
あれからもう5年も経つ。あれからなおさら、地震がおそろしい。
2009年、また地震が起きた。震度3だったけれど、あの地震の恐怖が蘇ってきた。
頭から離れない。地震について、よく調べてみたくなり、早速、ネットで。
あれこれ廻って辿り着いたのが、玉蔵さんのブログ。
凍り付いた。食事も抜いて読んだ。過去の文章まで徹夜して読んだ。
玉蔵節も気に入って、らくらく読めてしまった。ただ、何度も何度も「ゾーッ」とした。
「ゾーッ」としながら「拍手する」というのは初めての経験だったが、
ひたすら、読む→ゾーッ→拍手、読む→ゾーッ→拍手、読む→ゾーッ→拍手を繰り返した。
この10年、勉強勉強!仕事仕事!で生きてきた私にとって、初めて知ることばかり。
HAARP、サンジェルマン伯爵、ベクテル、ブッシュ、イルミナティ、フリーメーソン。。。
他に、多数の関連サイトを参考にしつつ、検証しながら、参照しながら。
内なる衝撃ってーのはこーゆーことだ。
仕事ほっぽり出して読んだ。その皺寄せで年末は大変だった。
しかしどうにかなるもんである。
くほほ。
とにかく、それ以来、全くの無知だった私は、玉蔵さんのおかげで、色んなことを知ってしまったのだ。
玉蔵さんへの感謝は深い。ただ「知ってしまった者としての責任」というものも強く感じる。
福岡西方沖地震。平成17年3月20日(日)午前10時53分。
「2005年3月」のHAARPの動きを調べてみて、ゾッとしてカッときた…。
自分の中に火が付いた。
黄金の金玉から派生して、色んなブログを読み漁って、まだまだ、たった数ヶ月だが、心は「やらせはせん」である!
最後に、玉蔵さん!発信源を増やしてのネットワーク作り、最良最高の案と存じ、賛同させてもらいました。
色々と教えてもらったこと、本当に本当に感謝している。
長文になってしまいました。読んでくださってありがとうございます。
次回は、新型インフルエンザの件で、自分の不可解な経験と疑問をサラッと書いてみます。
2005年3月19日。
同年1月に国務長官に就任したライスが来日、米国産牛肉の禁輸措置解除について、こう迫った。
※「この問題を解決するときが来た」
「米国産牛肉は安全だと保証する」
「科学にもとづいたグローバルスタンダードがあり、例外を認めるべきではない」
「(日本と同じ)全頭検査の要求は非科学的」※
※太字部分※:「木霊の宿る町」より引用
翌3月20日、羽田から韓国に向かったライスの乗った飛行機の、その真下で福岡県西方沖地震が起こった。
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